1986年(昭和61年)8月9日(土)。この日は、生涯忘れえぬ日
となりました。
自己申告なので、公認ではありませんが、根室本線根室駅にて、
日本国有鉄道全線完全乗車を達成。
完乗列車となった、釧路発根室行の急行「ノサップ1号」です。
記念に、入場券も購入。
国鉄全線に乗るという目標のために、金銭面、時間、その他
様々なものをつぎこむことになりましたが、もし、現在JR
全線を乗ろうと思ったら、夜行列車もなく、この当時のよう
にはいかないでしょう。
国鉄分割民営化の前夜であり、この時期を逃しては一生完乗
などできないと自分に言い聞かせ、乗りつぶしに励んだ日々。
あながち無駄ではなかったと回想しております。
根室駅からさらに納沙布岬を目指し、海を見ながら、全線完乗
の感慨に1人静かにふけってみようと思って、岬に到着して
みたら....。
戦闘服に身を包んだ政治結社の皆さまが多数集結...。
スピーカー全開にて、いろいろ叫んでおられます。
もはや、感慨にふけるどころではなく、早々に退散(笑)
その後で立ち寄ったこちら、落石岬の方がさいはての雰囲気が
ありました。
10月初めから掲載してきた半生記、拙い駄文にお付き合いを
いただいておりましたが、今回で一旦前半の締めといたします。
後半は、また機会をみて掲載していきたいと思います。
- 2015/10/18(日) 18:05:00|
- 鉄道写真談義&回顧録の部屋
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
1986年(昭和61年)も8月に入り、いよいよ全線完乗もカウント
ダウンです。
中国・四国の乗りつぶしから帰宅したのが、7月30日。
そして休む間もなく、中2日の8月2日、北海道へ向けて出発。
北へ向かう時は、いつもなら急行「きたぐに」か、大垣夜行で
向かうのが恒例でしたが、この時は京都から高崎まで、下記の
ような行程で動きました。
京都 646(720M)758 米原 800 (432M) 915 名古屋 1030 (37
39M) 1150 中津川 1200 (831M) 1349 塩尻 1446 (434M) 1539
小淵沢 1637 (249D) 1943 小諸 2033 (348M) 2204 高崎(泊)
青春18使用なので、すべて各停ですが、当時は慣れてしまった
のか、こんな動き方をしても、全く疲れは感じませんでした。
翌日は、北関東に散らばる未乗線区をひとつずつつぶしていき
ました。
高崎 539 (3423M) 620 桐生 623 (721D) 816 間藤
間藤 843 (750D) 847 足尾
足尾 913 (726D) 1044 桐生 1056 (449M) 1150 小山 1158
(561M) 1232 宇都宮 1256 (839M) 1342 日光
日光 1401 (842M) 1441 宇都宮 1520 (331D) 1610 烏山
烏山 1615 (国鉄バス)1659 茂木
茂木 1705 (836D) 1803 下館
ここで本州内の在来線は完乗。いったん上野まで戻ります。
下館 1806 (748M) 1823 小山 1912 (662M) 2031 上野(泊)
駅近くのビジネスホテルに宿泊、そして翌8月4日、初乗車と
なる東北新幹線「やまびこ35号」で盛岡へ。
盛岡から「はつかり7号」、青函連絡船5便へと乗り継ぎ、
函館まで入りました。
- 2015/10/17(土) 18:05:00|
- 鉄道写真談義&回顧録の部屋
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
北海道で国鉄全線を乗り終えたいがために、中国・四国地方の乗り
つぶしに明け暮れた1986年(昭和61年)7月の続きです。
ひたすら長い三江線や、
大社線や、境線もつぶしていきます。
ここ、境線は、ちょうどこの年まで、隠岐汽船への接続に便利な
「船着場臨時乗降場」が終点境港駅の先で運営されていました。
「マリンスターリレー号」のHMも...。
わずか2年、しかも夏季のみ限定の仮乗降場。貴重といえば貴重な
乗車体験でした。
米子駅では、珍しくスカ色115系とキハ58の並びも。
鳥取砂丘も訪れました。
若桜線も忘れずに...。
そして、四国へ渡ります。残すは中村線と内子線のみ。
帰路に、この年の11月で廃止となった飾磨港へ立ち寄り、
西日本は制覇しました。
- 2015/10/16(金) 18:05:00|
- 鉄道写真談義&回顧録の部屋
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
1986年(昭和61年)7月。
ここまでで、九州から北海道まで、全国の8割以上を乗りつぶし、
国鉄全線完乗のゴールも見えてきました。
完乗は、北海道のどこかの駅でと決めていましたので、それまで
に本州各地と四国に点在している未乗線区をつぶしていかねば
なりません。
そこで、またも青春18を2セット使い、10日間分で中国・四国、
関東北部へ立ち寄ってから渡道するプランを立てました。
まずは中国地区。
この当時、既に夜行急行はなく、ホテルやYHに泊まりながら
未乗線区をつぶしていきました。
中国山地の要衝、備後落合。
芸備線狩留家駅を通過する急行「ちどり」。
宮島航路も乗船し、
厳島神社へも参拝。
錦帯橋や、
青海島へも立ち寄りました。
この頃は、あまり走行写真の撮影はしておらず、結構あちこち
見てまわりながら乗りつぶしていました。
- 2015/10/15(木) 18:05:00|
- 鉄道写真談義&回顧録の部屋
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
明けて、1986年(昭和61年)3月。
2月下旬から、大学のスキー合宿が信州・関温泉であり、合宿
終了後、諏訪湖で1泊、飯田線経由で東海道へ出て、翌日から
埼京線と房総各線をつぶし、北海道へ。
この時も、20日間フルに周遊券を活用。
このような盲腸線も含め、
北海道内は、この3月までで、9割以上踏破。
この時期は、乗りまわるだけではなく、割と普通の旅も
していました。
釧路湿原で丹頂鶴を撮ったり、
知床では流氷原の落日にガラにもなく感動...。
稚内市街地の俯瞰撮影。利礼ドームも見えます。
洋上に浮かぶ利尻岳をバックに...。
この山は、この年の夏に登ることになります。
- 2015/10/14(水) 18:05:00|
- 鉄道写真談義&回顧録の部屋
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
1985年(昭和60年)7月、夏休みの前半を北海道周遊にあて、8月
はじめから、20日ぐらいまでは、自宅近くのパン工場で夜勤の出荷
アルバイトで資金調達。
御巣鷹山の日航ジャンボ機墜落事故というショッキングな事故が
あった年で、事故当日の夜は、バイト先の休憩室でテレビニュース
を固唾を飲んで見入っていました...。
パン工場のアルバイトですが、この年の4月からはじめ、夜7時から
深夜まで、週3日ほど入れていました。
ベルトコンベアに、流れてくるパン箱に、注文伝票の数だけパンを
入れていくという流れ作業ですが、パンがたくさん入った箱は重たく、
結構ハードな仕事でした。パン屋だから楽だと思ってたのに...(笑)
夜勤の割に、日給は安かったのですが、好きな日を出勤日にできる
のがメリットで、結局大学卒業まで続け、旅行資金や、撮影機材、
オーディオ機器購入などにあてました。
8月下旬には、ふたたび青春18と、信州ワイド周遊券との組み合わせ
で、北陸、北関東、信州の旅へ。
城端線城端駅。
七尾線輪島駅。
能登線恋路駅。
能登線蛸島駅。
といった北陸各線をつぶし、信州へ。
大糸線南小谷駅。このように、あまり走行写真は撮っておりません。
白樺湖から、霧ヶ峰へも行きました。
北海道へは、翌年春にも訪れることになります。
- 2015/10/13(火) 18:05:00|
- 鉄道写真談義&回顧録の部屋
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
これまでの乗るだけ+撮影という鉄道旅行のやり方を変えるターニング
ポイントとなった、1985年(昭和60年)夏の北海道ではありましたが、
もちろんいろいろな記録も残っています。
青函連絡船「八甲田丸」と、入れ替えのDE10。函館駅での撮影です。
大沼公園付近を走る旧型客車。
広尾線終点・広尾駅。
悲別駅。これは、架空の駅です。
「昨日、悲別で」という、TVドラマのロケ地でした。
実は、函館本線の上砂川支線の終点、上砂川駅。
今は、既にもうありません。(1994年5月16日廃止)
- 2015/10/12(月) 18:05:00|
- 鉄道写真談義&回顧録の部屋
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
昭和60年(1985年)7月。
九州、東北地区を踏破して、次なるターゲットは北の大地・北海道。
ここまでで、乗車線区は13,000kmを越えていましたが、だんだんと
各線を乗りつぶして沿線で写真を撮るだけの旅がもったいなく思えて
くるようになってきました。
この北海道旅行からは、YH(ユースホステル)にも宿泊するように
なります。
あまりご存知ない方もいらっしゃると思います。YHとは...
↓ ↓ ↓
これまで、旅先での人との出会いは、列車内などに限られましたが
このYHに泊まることで、いろいろな人との出会いの機会が増え、
見聞が広がるきっかけとなりました。
今にして思えば、若い多感な時期に、様々な人から影響を受けたことは
いい経験になったと思っています。
YH会員証。泊まったYHのスタンプがたまっていきます。
真ん中の上部にある「羽幌YH」のスタンプは、急行「はぼろ」の
サボそのもの。ペアレントが鉄道ファンだったのでしょうか。
宿泊代が安いため、駅近くのYHは、鉄道ファンも多く宿泊して
いましたので、情報交換もできました。
皆さん、夜遅く到着し、朝早く出発されて(笑)いましたが...。
そして、道内で使用したのが、これ。
道内の交通機関がとても詳しく記載され、重宝したものです。
縁がヨレヨレになって破れないようにセロテープで補強していました。
こうしたひとつひとつのアイテムに、多くの思い出が詰まっております。
- 2015/10/11(日) 18:05:00|
- 鉄道写真談義&回顧録の部屋
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
国鉄全線乗りつぶし...。
かって国鉄はフジカラーと組んで、「いい旅チャレンジ20,000km」と
いうキャンペーンを展開していました。
各路線の起点駅と終着駅で自身と駅名標が写った写真を撮り、これに
乗車日・乗車区間等を記載した所定の認定申告書を添えて事務局に送り
その路線に乗ったことを申告すると、その路線の踏破を証明する踏破
記録認定証と踏破認証シールが事務局より与えられるというもの。
当キャンペーンの開始は、1980年でしたが、当時国鉄は巨額の累積赤字
にあえいでおり、鉄道ファンに少しでもローカル線に乗ってもらい、
増収をはかろうとしていました。
国鉄内部では、廃止の協議を開始するというときに、くまなく乗って
くれというのは矛盾しているという意見もあったようですが、キャン
ペーン終了となる1990年までに、55,000人以上が参加したとされて
います。
キャンペーン開始の頃、自分もこれに参加しようと思っていましたが
既に5,000kmほど乗っていた線区も乗り直さなければならないという
ルールがあったため断念、独自のルールで進めることにしました。
そのルールは、こちらの記事に記載しています。
↓ ↓ ↓
各地で撮影をしながら乗りつぶし、あわせてスタンプや入場券も
収集。どこへ行くにもせわしく動き回る必要が出てきました。
この頃、旅行貯金にも手を出し、
↓ ↓ ↓
忙しさに輪をかけます。
各地へ出かけた時の周遊券も、この有様(笑)
↓ ↓ ↓
昭和60年(1985年)2月から3月にかけての春休みは、東北地方へ
20日間遠征。
終焉迫る旧型客車にも存分に乗車し、
ローカル線もワイド周遊エリア内は全線踏破。
毎夜毎晩、急行「八甲田」のボックスシートのお世話になりました。
よく体力が続いたものだと思いますが、若さゆえの行動でした。
- 2015/10/10(土) 18:05:00|
- 鉄道写真談義&回顧録の部屋
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
大学では鉄道関連のサークルに入会。
やはり団体に所属すると、様々な影響を受けるもので、写真を撮り
ながらも、国鉄全線乗りつぶしもしたくなってきました。
当時、まだまだ旧型客車は走ってましたし、
廃止対象となり、余命宣告されたローカル線も残っていた時代です。
大学1年の夏は、またもワイド周遊で九州内をくまなく踏破しつつも、
各線で撮影。
ただ乗るだけなら、もっと早く踏破できたかも知れませんが、沿線
で撮影しながらとなると、なかなか思う通りに計画は進みません。
ある種のジレンマを感じはじめたのも、この頃からでした。
- 2015/10/09(金) 18:05:00|
- 鉄道写真談義&回顧録の部屋
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
前のページ 次のページ